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Office MAIKO国語専門塾のつれづれ日記

Office MAIKOが思いついた時に書き記します。きっと、なかなか更新されません(苦笑)

「伊達直人の贈り物」

伊達直人の贈り物」という記事があった。↓↓
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/domestic/date_naoto/

なんかな、寄付とか贈呈とかを否定するわけじゃないんだけどさ・・・

このやり方って、多分に「自己満足」な感じがするんだよね。
とくに、この記事を見ると、「やっぱり」って思う。

「恵まれない」人に対する「施し」の気持ちは、大切かもしれない。弱者をいたわる心はぜったいに必要だ。でも、その気持ちって、実は「優越感」と裏腹なものなんだな。「弱者」の対義語って何だ?「強い者」とか「力のあるもの」とか? 弱者を意識するということは、その逆側にいる「自分」を認識するってことにつながるんだよね。気をつけないと、おそろしいことなんだ。

ちょっと話がそれたけれど、
記事にあるように、子供の教育に、子供の発達に、一番大切なのはモノではなくて、「人の心」だと思うんだよね。例えばさ、自分に何かをプレゼントしてくれた先生のことよりも、自分を真剣に怒ってくれた先生、自分と真剣に向き合ってくれた先生のほうが、ぜったい思い出に残ってるし、影響を受けたハズなんだよね。
本当に、子供の教育を考え、子供たちの未来を支えるお手伝いがしたいなら、やっぱり顔を見せてプレゼントするべきだし、何でプレゼントしたのかを伝えるべきだ。
本当に、子供たちに何かを残したいと思うなら、悪いことをした子供をきちんと叱ってあげられる大人、きちんと注意できる社会に「戻る」べきだ。むかしの日本は、「隣のおっちゃんに怒鳴られた」「知らないおばさんに注意された」なんて当たり前だった。怒られることは子供の仕事だった。叱ることが大人の責務だった。社会の当たり前だった!!
そうやって、社会全体で、日本の未来を支える「次世代の人」を育てていくことが大切なんだと思う。

お金やモノじゃないんだよね。。。

私ね、数年前に、城東高校で働いていたときに、生徒会で「体育館シューズを集めよう」という企画をしようとしたことがあるんだ。みんなが中学校ではいていた体育館シューズは、高校にあがると、もう使われない。高校を卒業するときには、高校の体育館シューズが「ゴミ」となる。体育館シューズは、そんなにヘビーユーズしているわけではないので、まだまだ靴底もすり減ってない、比較的「良好」な状態のもののまま捨てられてしまうことが多い。これって、すっごいムダだよねー。だから、それを集めて、靴が履けない国の子ども達に送ってあげればいいって考えた! 靴が履けない国の子ども達は、素足のままで土の上を走り回る。そして、足をケガする。ケガしてもそのまま歩き続けるから、そこからばい菌が入って破傷風を発症したりする。だから、そういう子ども達に靴を送ってあげることができたら、すっげーじゃんっって思ったんだ。
でも、それは、「自己満足」だと気づいた。
靴をもらった子ども達は、それはそれは大切にその靴を履いてくれるだろう。それこそ、靴底に穴があくまで。
でもさ、靴が、一生涯供給され続ける保証はない。靴を履くことに慣れた人は、もはや靴無しでは歩けない。そしたら、たとえ靴に穴があいても、靴が小さくなっても、靴をはき続けるのだろう。次の靴が供給されるまで。
私たちは、靴を永遠に支給し続けられるだろうか? 
また、成長期にある子供に「決まった大きさの靴」で生活させることは、それこそ、中国の「てん足」みたいにならないか? 私たちは、自分の足が成長して靴が「小さく」なっちゃったら、すぐに買い換える。けれど、供給を待つだけの靴では、靴のサイズが自分に合わなくなっても、ムリヤリはき続けることになるだろう。そしたら、「足のサイズを靴に合わせる」ことになってしまう。。。 これは、成長を阻害してしまわないか??
そこに気づいたとき、自分のアイデアが「自己満足」であることに思い至ったんだ。

福祉ってむずかしいね。