Office MAIKO国語専門塾のつれづれ日記

Office MAIKOが思いついた時に書き記します。きっと、なかなか更新されません(苦笑)

やりたいこと① ~はじめに~

 学校の先生として、13年勤めた中で、やり残したことが1つだけある。

 それは、後輩を育てること。

 何を偉そうに、て言われてしまうかもしれんけど、大きな後悔と反省。

 私は、35歳で退職をした。
 35歳。
 採用されてから12年。
 「講師」ではなく「教諭」として12年。

 ふつうの会社でも、正採用になってから12年っていうと、立派な「中堅」であり、新人の育成にあたってしかるべきキャリアの持ち主ですよね。「中堅」が「新人」を育ててあげないと、「新人」はいつまでたっても、育っていかない。
 私は、自分がペーペーだったとき、「中堅」の人たちから、かなり目をかけてもらって、しっかりと育ててもらった。(先輩方が思うように育ったかどうかは別にして)

 でも、私は、新人を育ててあげられなかった・・・

 徳島県の高校教員で、大卒すぐに採用される、なんてことは少ない。私は、運良く23歳で正式採用されたので、毎年、「新採用」として入ってくる先生方は、「新採用」ではない自分よりも年上、ということがしばらく続いた。「いちばん年下」に変わりない期間が長かったので、いつまでもいつまでも、「いちばん年下」で「いちばんぺーぺー」の気持ちが抜けなかった。

 そのわりには、態度でかかったじゃん! というお声が、あちこちから飛んできそうだけど(^_^;)

 そうではなくて、「いちばんペーペー」だと自認していたからこそ、「ベテランの先生に負けない授業をしよう」「生徒は、教科担任を選べないのだから、せめて私の生徒が『黒田じゃなくて、別の国語の先生に授業に来てほしかったな』なんて悲しいことを思わないでいいように、『教科担任が黒田で良かった』って言ってもらえる授業をしよう」と、毎年、そう思っていた。

 希望に満ちた教員生活のスタートを切った学校で、私は打ちのめされた。
 4月の歓迎飲み会の席でのこと。
 ある先生の「黒田さん、出身大学はどこ?」という質問に、私は元気に答えた。「鳴門教育大学です!」私は、鳴門教育大学が大好きだった。尊敬する野地潤家先生のお名前で学位を授与されたことは、わかる人にしかわからない、密かな自慢(笑) 「へぇ! 鳴教か。僕と同じやなぁ。僕も、鳴教出身でよ!」あたたかいお言葉に、嬉しくなった。有頂天で、大学を卒業したばかりの私は、へらへら喜んでいた。そこへ、50を過ぎた年配の先生が口を挟んだ。「あんた! 同窓生やて思ったらアカンでよ! この先生は、大学院で鳴教に現職で行っただけであって、学部は大阪大なんやけんな!学部が鳴教ふぜいのあんたと、一緒にせられんでよ!」 ・・・悲しかった。なんで、そんなこと言われなければならないのか。。。
 追い打ちをかけるように、別の先生が言った。「鳴教なんてな、小学校や中学校の先生になるなら、ええけど、高校の教員を目指して鳴教やいうのは、コンプレックスにこそなれ、まったく自慢できるもんではないんよ! よう覚えとき!」

 ダイスキだった自慢の母校は、このとき、ガラガラと音を立てて私の中から崩れていった。「でも、でも、私を導いてくれた教授陣は、最高の、一流の、すばらしい方々だったもん!」そう思ってみても、言葉にならず、それを証明するすべもなかった。
 若かった私は、考えた。
 「そうだ! 私は、あんなに素晴らしい教授陣に、国語科教育のいろはをたたき込まれて、今ここに居るんだ。だったら、私が、誰よりも素晴らしい授業をすればいい。私の授業がわかりやすくて、生徒の国語力を伸ばすことができれば、きっと、みんなが鳴教を見直すはずだ! みんなが鳴教をバカにするなら、鳴教がどんなに素晴らしい大学だったか、私が証明してみせる!」

 今思うと、本当に浅はかだけど、当時は、本気でそう思っていた。

 そして、毎年、私は目指した!
 「学校でいちばんわかりやすい授業をする国語の先生になってやる!」

 そう! 私の「いちばんを目指す」は、とりもなおさずコンプレックスから始まっていたのだ。「最下位」から目指した「トップ」
 毎年毎年、「自分が最下位」というところから始まるのだ。出身大学は、変わらないから。

 そんな私に、どうして「後輩を育てる」などという余裕があったろう。

 学校の先生をしていた私は、毎年毎年、つねに「いっぱいいっぱい」だったのだ。


 退職してから、気づいた。
 私、もしかして、「中堅」だった?? 

 そう。退職間際の私は、新人の私を育ててくれた先輩たちと同じ年代になっていたのだった! 人を育てることの鉄則は、「自分がしてもらったことは、下の年代へ返せ」だ。
 恩師への最大の恩返しは、「自分の成長」と「恩師にもらったすべてを下へ受け継ぐこと」。
 私は、「自分の成長」ばかりにとらわれて、「下の世代へ受け継ぐ」という大切な使命を置き忘れたまま、退職してしまった。

 だから今、現職のときにできなかった「下の世代へ」という課題に、取り組みたいのだ。

 もちろん、自分自身もまだまだ成長の途中。まだまだ、自分が下を育てるなんていうのは、おこがましいと思っている。だから、私は、この徳島に、「一流」を招いて、「一流」の手を借りて、徳島の若い教員を育てたいと思っている。私が育てるのではなく、私は、「一流」をご紹介するのだ。私も、一緒に学び、成長する。若い人と、一緒に、成長する。
 
 私は、「一流」と「徳島の先生」の架け橋となって、徳島の教育界をもり立てていきたいと思う。